近代日本画家にも影響を与えた【円山応挙】
円山応挙(まるやま おうきょ)は、江戸時代中期から後期に活躍した、日本の有名な絵師です。享保16年(1733年)に丹波国(現在の京都府亀岡市)の農家に生まれました。
10代で京に出て、最初は役者絵や浮世絵、人形の着物の下絵などを描く「おもちゃ絵師」として生計を立てていました。この時期に、現在のメガネのような「覗き眼鏡(のぞきめがね)」用の眼鏡絵(遠近法を用いて描かれた絵)に触れ、西洋の透視図法(遠近法)を熱心に研究し始めます。その後、狩野派の流れを汲む鶴沢派の画家、石田幽汀(いしだ ゆうてい)に入門します。ここで応挙は伝統的な日本の絵画技法をしっかりと学びました。
応挙の画業の最大の特徴は、伝統的な絵画の枠組みに、彼が独自に研究した「写生」の要素を徹底的に持ち込んだ点です。当時の中国の写生画(南宋の牧谿や明の沈周など)を研究し、さらに身の回りの動植物や風景を直接観察し、デッサン帳である『写生帖』に大量のスケッチを残しました。この徹底した写生により、鶴の羽の質感、子犬の毛のふわふわ感、木の肌の凹凸など、従来の観念的な描き方では表現できなかった生き生きとした質感とリアリティを実現しました。また、西洋画の透視図法(線遠近法)や、光と影を扱う陰影法を、日本の伝統的な絵画の技法(水墨や装飾的な金箔など)とうまく融合させました。これにより、日本の絵画に奥行きと立体感がもたらされ、新鮮で親しみやすい画風として、当時の人々に大いに受け入れられました。
代表的な作品には、紙本淡彩雪松図(しほんたんさい せっしょうず)があり、国宝に指定されている作品で、雪の重みで垂れ下がった松の枝などが巧みに表現されています。
朝顔狗子図杉戸(あさがおくしず すぎと)は、可愛らしい子犬たちが戯れる様子を描いた、非常に有名な作品です。
京都の寺社や富裕な町人たちの依頼で多くの襖絵や屏風を描き、その人気と実力から、多くの弟子が集まりました。これにより、応挙を祖とする「円山派」が確立し、京都画壇の一大勢力となります。弟子には、応瑞(おうずい)、長沢芦雪(ながさわ ろせつ)、源琦(げんき)など、個性豊かな画家がいます。応挙の弟子ではないものの、応挙の写生主義に強く共鳴した呉春(ごしゅん)が、応挙の画風に自分の持つ俳画や文人画の要素を加え、「四条派」を起こしました。この「円山派」と「四条派」が合流し、「円山・四条派」として、幕末から近代に至るまで京都画壇の中心的な地位を占めることになりました。この系統は、後の竹内栖鳳(たけうち せいほう)などの近代日本画家にも影響を与え、「京都の写生画」の伝統を形作りました。
現在取引額は数十万円~数百万円
江戸後期の美術界に絶大な影響を与えた【谷文晁】
谷文晁(たに ぶんちょう、1763年〜1840年)は、宝暦13年(1763年)、江戸の下谷根岸(現在の台東区)に、田安徳川家の家臣で漢詩人であった谷麓谷(たに ろっこく)の子として生まれました。幼少から文才と画才に恵まれていました。12歳で、父の友人であった狩野派の加藤文麗(かとう ぶんれい)に師事し、絵画の基礎となる狩野派の正統な技法を学びました。その後、南画(文人画)を中山高陽の弟子である**渡辺玄対(わたなべ げんたい)に学び、若くして南北(南画と北宋画)の画法に触れています。
文晁は特定の師や流派に満足せず、生涯を通じてあらゆる画法を貪欲に研究し続けました。国内の諸派である狩野派、大和絵、土佐派、琳派、そして円山応挙や四条派の写生画。中国の諸派:の南宋画、北宋画、明清の文人画。さらに海外の画法である朝鮮画、西洋の遠近法や陰影法です。彼は、これらの多様な画法を作品の題材や目的に応じて使い分けたり、融合させたりしました。この「すべてを学んで取り入れる」姿勢が、彼の代名詞である「八宗兼学(はっしゅうけんがく)」の画風を確立させました。特に、広範囲にわたる旅行好きで知られ、20代のうちに日本各地を旅し、写生を行っています。この写生旅行で得た広範な知識と写実的な技術が、彼の画業の土台となりました。
文晁の画業を決定づけたのは、寛政4年(1792年)に老中首座となった松平定信に近習(側近)として仕えるようになったことです。定信の命により、全国の古美術品や文化財の調査・模写に携わりました。これは、古典絵画の知識と技術を磨く絶好の機会となり、後に『集古十種』という古美術の図録集の編纂に深く関わります。また、定信の海防政策の一環として、江戸湾沿岸の巡視に随行し、地形図などを描きました。この時の記録が『公余探勝図巻』であり、彼の正確な写生能力と、当時の風景の貴重な記録となっています。この幕府の最高権力者との強い結びつきにより、文晁は経済的な安定と、当時の画壇における圧倒的な地位を得ることができました。
また、「写山楼」と名付けた画塾を江戸に開きました。ここは、幕府お抱えの狩野派とは異なる、民間の絵師の育成拠点として機能しました。弟子たちの個性や適性を見抜き、特定の流派に縛らずに、それぞれの才能を伸ばす教育方針をとりました。この門下から、後の江戸画壇の重要な担い手となる渡辺崋山、立原杏所、高久靄崖(たかく あいがい)といった優れた画家が多数輩出されました。
文晁の作品は、大きく二つの時期に分けられ、寛政期(1789-1801年)を中心とした時期で写実的で力強く、硬質な筆致の作品が多い。模写や調査の経験が反映されています。文化期(1804-1818年)以降の晩年:は筆致が自由になり、水墨を多用した湿潤で叙情的な南画風の作品が増えます。
文晁は、「技法を広く学ぶ探究心」と「権力との結びつき」、そして「後進の育成」という三つの面で、江戸後期の美術界に絶大な影響を与え、その地位は「江戸の巨星」と称されるにふさわしいものでした。
現在の取引額は数百万円~
新しい芸術のジャンルを開拓した【池大雅】
池大雅(いけの たいが、1723年〜1776年)は享保8年(1723年)に京都に生まれました。主に中国から輸入された『八種画譜』などの手本画集(画譜)を通じて、中国の南宗画(南画)の技法を独学で身につけました。幼少期から、生活のために伏見稲荷の近くで指を使って絵や文字を描くことで生計を立てていました。この指頭画の技法は、彼の生涯を通じてのびのびとした自由な筆致の源泉となりました。
当時の京都の学問・芸術の中心にいた多くの文人や知識人と交流を持ちました。彼の才能をいち早く見抜いたのは、京都の裕福な商家である祇園南海(ぎおん なんかい)や、儒学者の柳沢淇園(やなぎさわ きえん)といった、すでに文人画を描いていた人々でした。彼らは大雅に中国の画譜や典籍を提供し、彼の画業を支えました。絵で生活できるだけの収入を得ながらも、名声や富を追わず、簡素で清貧な文人の理想的な生活を送りました。これが彼の作品に、形式にとらわれない自由な精神をもたらしました。
『十便十宜図』は池大雅45歳、与謝蕪村53歳の時の合作です。中国の文人、李漁(りぎょ)の詩文に基づいて、山中の閑居生活の魅力を、大雅が「十便」(暮らしの便利さ)を、蕪村が「十宜」(景色などの素晴らしさ)をそれぞれ10面ずつ描きました。この作品は、日本文人画の金字塔として国宝に指定されています。
池大雅は伝統的な筆墨の表現に加え、以下のような独創的な表現を試みました。南画は本来、水墨が主体ですが、大雅はしばしば金泥(金色の絵の具)を用いて、画面を華やかに、そして空間に奥行きを与える日本的な装飾性を加えています(例:『楼閣山水図屏風』)。中国的な山水画の題材だけでなく、実際に旅した日本の富士山や宮島(厳島神社)など、日本名勝の風景を南画風に描き、日本の風景画の発展にも寄与しました。
池大雅は、伝統と格式を重んじる狩野派や土佐派が支配的だった時代に、独学と自由な精神で新しい芸術のジャンルを開拓し、後世の画家たちに大きな刺激を与えました。
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