2025年08月01日

戦後の日本美術発展に貢献した具体美術協会メンバーをChatGPTを活用してご紹介

旭川に住む美術品・骨董品マニアの私が、有名作家や作品を世に広めるため、詳しくご紹介します!また、お宝をお持ちの方におすすめの買取り店もご紹介。


戦後の日本美術で異彩を放った【白髪一雄】

 
白髪一雄(しらが かずお、1924-2008)は、戦後の日本美術史において異彩を放つ、具体美術協会を代表する画家です。彼の作品は、文字通り「身体」そのものを用いた独特の描画スタイルによって生み出され、国内外で非常に高い評価を受けています。

1954年に結成された「具体美術協会」の中心メンバーの一人として活動しました。具体美術協会は、「人の真似をするな、今まであったものを作るな」という吉原治良の精神のもと、既成概念にとらわれない新しい表現を追求しました。その中でも白髪は、絵具を塗ったキャンバスの上を滑るようにして描く「フット・ペインティング」という、極めて身体性の高い方法で作品を制作しました。

キャンバスを床に置き、天井から吊るしたロープにつかまりながら足で絵具をこね、引きずり、時に飛び跳ねるようにして描かれる彼の作品は、単なる絵画というよりも、行為そのものが可視化された痕跡と言えます。完成した作品には、絵具の厚みや流れ、飛沫、そして足跡のような跡が残り、白髪の身体の動き、重力、そして時間といった要素が凝縮されています。

彼が足で描くという手法に行き着いた背景には、既存の絵画における「手」による描画の限界を感じていたことがあります。手で描くことの慣習や技巧を排し、より根源的で直接的な身体の動きを作品に反映させることで、無意識の衝動や純粋なエネルギーを表現しようと試みました。

また、彼の作品は単に奇抜なパフォーマンスに終わるものではありません。その力強い筆致と色彩は、見る者に強烈な印象を与え、絵画における身体性や物質性、そして表現の自由について深く問いかけます。

白髪一雄の作品は、その革新性と独自性から、早くから海外でも注目を集めました。アクション・ペインティングやアンフォルメルといった当時の国際的な美術動向とも呼応しながらも、彼自身の個性を強く打ち出しており、今日では世界中の主要な美術館に所蔵され、高く評価されており、絵画の可能性を広げただけでなく、身体と芸術の関わりについて新たな視点をもたらした、まさにパイオニアと呼べる画家です。

現在の直筆作品の取引額は数千万円~数億円。

実業家の顔も持ち、具体美術協会を結成した【吉原治良】

 
吉原治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は1905年、大阪の老舗の油問屋の御曹司として生まれました。中学時代から独学で絵を描き始め、若くして画家としての才能を開花させます。その後、敬愛していた藤田嗣治に作品を見てもらう機会がありましたが、その際に「他の画家の影響がありすぎる」と厳しく指摘されました。この出来事が、吉原のその後の芸術観を決定づけ、「人のまねをするな。今までにないものをつくれ」という言葉を生涯の信条としました。

実業家としても成功し、吉原製油(現在のJ-オイルミルズ)の社長を務める一方で、戦前から日本の前衛美術運動を牽引しました。

1954年、関西の若い画家たちを集めて具体美術協会を結成しました。これは、戦後の日本美術界に大きな衝撃を与えた前衛芸術グループです。吉原はリーダーとして、若手作家の個性を尊重し、それぞれが独自の表現を追求するよう促しました。具体美術協会のメンバーたちは、絵の具を身体にぶつけて描いたり、泥の中で格闘したり、穴の開いた巨大な布を風になびかせたりするなど、従来の絵画の枠組みを大きく超えた作品やパフォーマンスを発表しました。

また、吉原は具体美術協会の活動を世界に広めることにも力を注ぎました。機関誌『具体』を日英表記で発行したり、海外の評論家や美術家との交流を積極的に行ったりしたことで、具体は国際的に高い評価を得るようになりました。

作風は、生涯を通じて変化し初期はシュルレアリスムの影響を受けた作品を制作し中期には荒々しい筆致と、油絵の具が大胆に盛り上がった厚いマチエール(絵の具の質感)が特徴的な抽象画を描きました。晩年の1960年代後半からは、筆跡がほとんど見えないほど滑らかに、簡潔な「円」を主題とした作品に集中します。黒地に白、または白地に黒で描かれたこれらの円は、吉原の芸術が到達した一つの境地とされ、海外でも高く評価されました。

吉原治良は、実業家として会社を経営する一方で、日本の戦後美術の発展に大きく貢献し、多くの才能を世に送り出した革新的なアーティストだったと言えるでしょう。

現在の直筆作品の取引額は数百万円~数千万円。

既成概念にとらわれない、新たな表現の可能性を切り開いた【嶋本昭三】

 
嶋本昭三(しまもと しょうぞう、1928年 - 2013年)は、日本の芸術家、現代美術家です。彼は戦後日本の前衛美術を代表する「具体美術協会」の創立メンバーの一人として知られています。美術を学び始めた頃から、既成概念にとらわれない独自の表現方法を模索していました。1947年に、後の具体美術協会のリーダーとなる吉原治良に師事し、彼の「誰もやったことのないことをやれ」という教えに深く影響を受けました。1954年の具体美術協会結成にあたり、「具体」というグループ名を提案しました。

絵の具の入った瓶をキャンバスに投げつけ、その破片や飛び散った絵の具で作品を制作する「瓶投げ」や、絵の具を詰めた大砲を発射する「大砲絵画」といった、身体性を伴うパフォーマンスを重視した作品で注目を集めました。キャンバスの代わりに新聞紙に穴を開けた作品や、映像、サウンドアートなど、多様な手法を用いて表現の可能性を追求しました。

1970年代からは、郵便を使った芸術活動「メールアート」の先駆者としても知られています。「メールアート」は郵便を使ったアート活動です。手紙やはがき、様々な物を送受信することで、国境を越えた芸術家のネットワークを築きました。これは、作品を展示会場だけでなく、社会全体へと広げていく試みでした。晩年には、頭を剃ってそこに絵を描く「スキンヘッドアート」や、芸術グループ「AU」の運営、後進の育成にも力を注ぎました。

嶋本昭三は、戦後の日本美術界において、既成の絵画や彫刻の枠組みを大胆に破壊し、身体的なアクションや偶然性を追求することで、新たな表現の可能性を切り開いたパイオニアと言えます。

現在の直筆作品の取引額は数十万円~数百万円。

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