2020年09月22日
旭川市は今年で開村130年。 様々な苦境を乗り越えてきた先人たちの努力を 4回にわたって紹介します。 1回目は、米作りの歴史を振り返ります。
屯田兵が入植した当時は、道さえ整備されていない森林そのものだったため、木を伐採し、クマザサを焼き払い、未開の土地を開墾するところから始まりました。寒冷地の気候は稲作には向いていないとの考えにより、北海道での米作りは国から禁止されていましたが、入植した人たちには、どうしても米を食べたいという熱意がありました。
また、当時は冷害が多く、葉物野菜を収穫できない不安がありました。そこで、冷害に強く、買取価格が高い米の生産を目指し、本格的に畑作から稲作に移行することになります。
移行するには、畑そのものを作り替える必要がありました。決して簡単な作業ではないため、中隊の力を借りて排水路を整備するなど、多くの時間と労力を費やしました。そのため、もう畑作には戻らないという強い覚悟を持って稲作を始めたと思われます。
開村の翌年(明治24年)には、寒さに強い赤毛種という品種から、米の収穫に初めて成功しました。まさに旭川産米の第一歩です。
稲作は肉体労働であるため体力が必要ですが、屯田兵である18〜30歳ぐらいの男性は、昼間は軍の訓練を受けていて農作業をすることができず、主に高齢者や女性が農作業を担っていました。その負担を少しでも軽減しようと知恵を絞り、旭川兵村では「タコ足型もみまき器」や「馬廻動力機」など独自の農作業用機械を発明し、米作りが飛躍的に進展しました。これらの道具の効果は大きく、タコ足型もみまき器は中国でも使用されたと伝わっています。
先人たちの努力が実り、昭和3年には上川地方の米の生産量は百万石(約15万t)を突破し、同38年には旭川産米が出荷日本一となりました。
何もない森林を切り開き、畑を開墾し、成功例のない北方での米作りに挑んだことは、想像もできないような苦労と努力の連続だったと思います。
今よりも寒い気候の中、屋根のない小屋で生活していたとの記録もあります。
旭川の歴史の原点を、後世に伝えていきたいと思います
旭川産米が出荷日本一になった理由には、先に紹介したたくさんの努力がありますが、時代背景として、戦後の食糧難で米が大量に必要だったことと、食糧管理法により生産した米は政府が全部買い取っていたことも関係しています。
しかし、その後、パンや麺類などが一般家庭にも普及したことで、米の消費量は徐々に低下していきます。そして、全国で余りはじめた米の生産過剰を解決するため、北海道の作付面積が半分に削減されることになります。
最終的には生産流通の自由化に伴い食糧管理法が廃止され、北海道の米農家にとって逆風が吹き荒れました。大量生産に重きを置き、全国に比べると味の劣る北海道産米は、ついには政府の買付価格が最低ランクに落とされる事態になりました。
質より量の時代から、おいしいものを求める豊かな時代に変遷したことで、広大な農地を利用して生産していた北海道米は、いつしか「やっかいどう米」と呼ばれる存在となりました。
この絶望的な状況を打破したのが「きらら397」の誕生です。
米の品種改良に取り組む、上川農業試験場の宗形信也さんに話を聞きました。
上川農業試験場研究主幹 宗形信也さん
「北海道産米は、かつては地元の人も食べないような存在でしたが、北海道でおいしい米を作るという熱意を持って品種改良が続いてきました。
年におよそ100パターンの交配をし、その結果が出るのに10年かかります。10年待ち続けても、思うような米にならないことがほとんどです。そうした試行錯誤の末、昭和63年に誕生した『きらら397』で、北海道産米のイメージは一新されました。
その20年後に開発した『ゆめぴりか』で、さらに人気に拍車が掛かり、北海道が米どころとしての地位を確立できました。ゆめぴりかの品質はかなり高いですが、もちろんこれに満足しておらず、よりおいしい米の開発を目指しています。そこには、味の向上だけではなく、寒さに強い、病気にかからないなど、生産のしやすさという改良も含みます。農家の人手不足が問題となっている中で、農作業の省力化への転換期を迎えており、収穫量の多い稲を開発することが、その手助けにつながります。品種改良に終わりはありません」
ビニールハウスでの品種改良
おいしい米の開発に成功している一方、近年では担い手不足という危機に直面しています。
農政課の小松義尊さんに話を聞きました
農政課経営支援係長 小松義尊さん
「農業の世界でも高齢化が進み、離農する人が増えています。離農した人の農地は現役世代の農家が引き継いでくれていますが、このままのペースでは、それもいずれ限界を迎え、使われない農地が出てきてしまいます。
また、離農する人が増えると、次の世代に知識や技術を伝えることが難しくなり、新規就農のハードルがさらに上がることも問題視しています。
市では、年間60件ほどの就農相談を受けていますが、農業センターや農家の研修を受けて、実際に新規就農する人はごくわずかです。新規就農には、初期費用の工面や農地の確保も重要ですが、特に地域との円滑なコミュニケーションが不可欠です。地域に受け入れられたときの周囲のサポートは、とても頼もしいものだからです。
食は命を支えており、それを作る農業はやりがいのある仕事ですから、若者には農業の現場にどんどん入ってもらいたいです。そして、農業のさらなる発展を目指して、就農者を増やすことと、新しい技術を導入した農作業の省力化という両輪を実現するシステム作りを進めていきたいです」
農業研修の様子
祖父の代からの米農家3代目となる、あさひかわ農業協同組合青年部部長の大澤直弥さんに話を聞きました。
あさひかわ農業協同組合青年部部長 大澤直弥さん
「旭川農業高校を卒業後、大学に進学し、一度は民間企業に就職しました。
しかし、いずれは実家の農業を継ごうという思いがあり、担い手不足が問題となる中、26歳で実家に戻りました。離農していく周辺の農地を引き継ぎ、今では米の作付面積だけでスタルヒン球場のグラウンド約2個分にまで広がっています。もう少し広がってもまだ管理できますが、効率化と負担軽減のためにドローンの免許を取得して水まきなどに活用しようと考えています。
また、広い敷地で米だけを作っていても、いつか価格が下がったときに経営が成り立たなくなるので、他の農作物を作ることも視野に入れています。
仕事と同じぐらい、仲間との情報交換を大切にしており、市外の農業関係者とも交流しています。若い世代から聞く新しい技術や、高齢の方の体験談には、掛け替えのない価値があります。特に、成功例よりも失敗例のほうが勉強になることが多いです。
農作物は、やればやるだけ返ってきますから、手間暇をかけて育てています。農業は何かと大変なことが多いですが、若い人と一緒に農業を盛り上げていきたいです」
130年という長い時間をかけて発展してきた、旭川の米作り。
その根底には多くの人たちの努力や、今を乗り越えるための独自の発想、より良い未来を実現するための強い意志がありました。
先人たちの思いや技術を引き継ぎ、若い世代が新たな挑戦を続けることで、旭川市の農業はさらなる発展を遂げていくことでしょう。
昔の人は稲わらを使い、身の回りの生活用品を作っていました。
今回は簡単な織り方を紹介します。稲わらや麻糸がなくても、小枝やひもなどでも作れるので、ぜひお試しください。
①段ボール箱に等間隔に切れ目を4つ入れ、麻糸を通します
②1段目は、稲わらを置き麻糸で1度玉結びをします
③2段目は、稲わらを置き麻糸を交差して仮止めします
④③を繰り返して、最終段は再度玉結びをします
⑤両端をはさみで切りそろえて完成
⑥牛乳パックに巻き付けて花瓶にしたり、写真を貼って壁掛けにもできます
↑こちらでも作り方を紹介しています。
この記事のキュレーター
旭川兵村記念館に展示しているタコ足型もみまき器