2020年12月23日
旭川市は今年で開村130年。 様々な苦境を乗り越えてきた先人たちの努力をこれまで3回にわたって紹介してきました。 最終回は、各時代の世相を色濃く反映している中心市街地に焦点を当てながら、まちづくりの歴史を振り返ります。
アイヌの人たちは、上川盆地を中心に独自の文化を形成し、川で魚を捕り、野山で植物を採るなど、自然とともに生活を営んでいました。
明治2年、北海道に開拓使が置かれて上川盆地一帯が調査されると、開発の準備が急速に進められます。明治23年には旭川・神居・永山の3村が設置され、やがて屯田兵が移り住みました。
午前は訓練、午後は開墾に明け暮れ、昼間でも日が届かないほど暗い大森林を切り拓き、畑作や稲作を成功させていきます。
明治25年頃には、旭川村の入り口付近(現在の1条通2〜5丁目)がまちの中心地となり、宿や雑貨屋、料理店などが建ち並び、公共施設も設けられました。
明治31年、旭川と滝川を結ぶ鉄道が開通しました。
その後、明治33年に旭川は村から町となり、翌年に第七師団が移駐されると、軍の補強とともに、まちの人口も増えていきます。駅前から旭橋を経て師団司令部に至る道路は、人馬の往来が盛んになるにつれて商店が進出し「師団通」と呼ばれ、まちのメインストリートとしてにぎわいました。
そして、大正3年には旭川区へ、大正11年には旭川市へと、さらに発展していきました。
北鎮記念館の館長等を務め、現在は「『故郷の魅力』つたえ隊」として活動する平塚清隆さんは、当時の暮らしについて
「大正末期から昭和初期には生活様式も変化して、小学生の服装も和服から洋服にようやく変わりました。師団通には映画館や料理店が開業され、戦前の最盛期を迎えます。昭和4年頃には師団通を照らす、すずらん灯が設置されました。まちは、すずらん灯や昭和5年頃から普及したネオンサインで輝き、夜景の美しさは当時の市民の自慢だったようです」と話します。
師団通のすずらん灯(昭和10年代)
旭川は、石狩川など多くの川が合流しており、大雨が降るとすぐに川が氾濫し、家や橋が流されるなど被害が絶えませんでした。消防組(火事などの災害時にまちを守っていた人々)だけでなく、第七師団も出動し、人命救助や堤防の防護に当たっていました。
雨がやんで水が引いても、至る所に水害の爪痕が残り、まちの発展のためには治水工事が不可欠でした。
そこで、昭和5年から、中心市街地を流れる牛朱別川の流れを切り替えるという壮大な事業が始まります。工事終了後には常磐公園やロータリー交差点などが整備され、旭川の新しい顔となりました。
常磐公園には遊具などが設置された他、貸しボートや料理店などが軒を連ね、祭り会場やデートスポットとして市民に親しまれていきました。
昭和12年頃から始まった戦争が激しさを増すと、市民は耐乏生活を余儀なくされ、食料だけでなく日用品も配給制になりました。
戦争末期になると、主食の配給も少なくなり、常磐公園などで野菜等を育てたり、野草やでんぷん粕まで食べるようになりました。
昭和20年、敗戦を迎えると、戦災などで資産を失った引き揚げ者に対する応急的な対応として、師団通周辺への露店開設が許可されます。
3条通8丁目にあった「平和マーケット」もその一つで、数百軒もの露店が集まり、混乱期に市民が買い物に行ける場所として生活を支えていました。
しかし、戦後の復旧が進むにつれ、強制的に撤去されることになり、当時の事業者は結束してビルを建設し、共同で商売を続けることにしました。
それが現在の緑橋ビルです。
細かく区割りされた店構えから、当時の名残を見ることができます。
戦後間もなく第七師団は解体、師団通は「平和通」へと改称されました。
これには戦争の惨禍を繰り返さず、平和な国家を築こうという誓いが込められています。
昭和30年代に日本は高度経済成長を迎え、平和通には近代的なビルが建ち並びました。
さらに、昭和40年代、日本にマイカーブームが訪れ、急速に車の交通量が増加し、旭川も例外ではなく、平和通には車があふれ、まるで人間は邪魔者扱いされているかのようでした。
平和通で交通事故が多発する中、昭和40年、当時の五十嵐広三市長は、車社会から脱却し、自然とともに生きるために「平和通買物公園」の構想を発表しました。
これには、平和通を交通事故の不安がなく、子供が遊び、大人は買い物を楽しみ、みんなが憩い、自由に過ごせる場所にしたいという思いがありました。
旭川平和通商店街振興組合理事長の大西勝一さんは
「あまりに奇想天外な構想だったので、平和通の店主はぴんときていなかったようです。でも、周囲の商店街よりも売上げが落ちていたこともあり、平和通をもっと盛り上げたいと考えていました。商店街の店主や市役所、青年会議所など中心になったメンバーは『七人の侍』と呼ばれ、深夜まで会議を重ねていました」
と話します。
旭川平和通商店街振興組合 理事長
大西勝一さん
そんな人々の情熱が、関係省庁を動かします。
昭和44年8月、旭川夏まつりの開催に合わせて、12日間にわたる車両通行止めが許可されました。
期間中、周辺道路に大きな混乱はなく、平和通にはこれまでの数倍の買い物客が訪れ、検証は大成功を収めました。
検証から3年がたった昭和47年6月1日、ついに全国初の恒久的な歩行者天国・平和通買物公園が
誕生。
両側には歩道、従来の車道には緊急車両が走れるよう大きくS字に曲がる通路、通路の内側にはベンチや遊具等が設置されました。
五十嵐市長が「平和通は、ただ今、道路から公園に変身しました」と高らかに宣言したオープニングセレモニーには多くの市民が集まり、商店街の売上げはこれまでと比べて約3割増加しました。
大西さんは「大人たちは『まちに行こう』と言って、家族でおしゃれをして遊びに来ていました。ここには、お店も憩いの場も何でもありました」と当時の様子を話します。
平和通買物公園オープニングセレモニー(昭和47年)
平和通買物公園のオープンは買物公園の完成ではなく、市民にとって愛され続ける買物公園への第一歩だと考えられていました。
その後、昭和53年には歩道の段差が解消され、昭和63年には店舗にあったアーケードが外されて店舗の外装が改修されました。
平成10年からは通りの両側にロードヒーティングが施され、花壇や遊具等が撤去されるとともにS字通路が直線になり、イベントなどで人が集いやすい空間が完成しました。
時代の変化とともに、郊外に居住する人が増え、大型集客施設が進出するようになりました。大西さんは現在の状況を「出掛ける場所の選択肢が増えたこともあり、買物公園の人通りが徐々に減少していると実感しています」と話します。
そこで、にぎわいを取り戻そうと、商店街や市民による活動が進められています。
旭川平和通買物公園企画委員会が、昭和47年から開催している「買物公園まつり」を、平成14年からは「買物公園まつり・大道芸フェスティバルinあさひかわ」にリニューアルし、全国から集まった大道芸人や市民パフォーマーによる多彩なパフォーマンスが披露されている他、旭川理容美容専門学校の学生が無料で実施している子供たちへのピエロメイクも人気で、買物公園全体が祭り会場として多くの人でにぎわっています。
また、今年は買物公園にオープンテラスを期間限定で設置し、テークアウトした食事を楽しめる空間や、活動の機会がなくなってしまった方が演奏を披露するなどの発表の場を提供し、道行く人々を楽しませていました。
買物公園オープンテラスでの演奏を楽しむ人々
これらの活動には、買物公園が市民にとって日常の一部として楽しめる場所であり、また、滞在できる場所であるようにという思いが込められています。
7条緑道では、緑道の環境を整備して美しい景観にしようと、ボランティア団体の緑道ワークスと市が協働で、ごみ拾いや植栽をしています。
緑道ワークス事務局 齊藤琴乃さん
緑道ワークス事務局の齊藤琴乃さんは
「緑道を愛する人たちが、未来の旭川の人たちに心地よい空間を残そうと活動しています。私たちは専門家ではないので、詳しい方に植栽のコツを聞いたり、お年寄りの知恵も借りて、どのような植物を植えるかを話し合って決めています。活動には市の職員や商店街の人はもちろん、市内の高校生や大学生、活動中にたまたま通り掛かった人など、たくさんの人が参加してくれます。活動は強制ではなく、自分の庭を造る感覚で、できるときに参加するという『緩やかなつながり』を大切にしています。ここから交流が生まれて、緑道がほっとできる
場所になったらうれしいです」
と話します。
豊かな自然と都市機能が調和する暮らしやすいまちを目指して、平成10年に「北彩都あさひかわ」の整備が開始され、平成22年には旭川駅が木の温もりあふれる駅舎に生まれ変わりました。
また、平成27年にはあさひかわ北彩都ガーデンがグランドオープンし、夏には色取り取りの植物が咲き誇り、冬には一面の銀世界が広がるなど、四季を通じて自然を身近に感じられる憩いの空間となりました。
家族連れの市民や観光客が、季節ごとに散歩やジョギング、スノーチューブなどを楽しんでいます。
9月号から4回にわたり、様々なテーマに沿って旭川の歴史を振り返ってきました。
「やっかいどう米」と呼ばれた北海道米の絶望的な状況を打破した起死回生の一手、需要の変化に対応してデザインに磨きをかけ世界からも注目される旭川家具、先人たちのたゆまぬ努力で発展してきた旭川の酒造り、そして、市民とともに築き上げたまちのにぎわいと、先人たちは幾多の危機に直面しても、その優れた技術や熱意で乗り越えてきました。
今回紹介したこれらのテーマは、旭川の魅力のほんの一部です。
皆さんも旭川の魅力を発見してみてください。
旭川市は2年後に市制施行100年を迎えます。
先人たちから歴史を受け継ぎ、今を生きる私たちの日々が、未来の旭川への懸け橋となるでしょう。
この記事のキュレーター
「故郷の魅力」つたえ隊 事務局長 平塚清隆さん