数々の有名ファッション雑誌で、北海道を代表するアメカジのパイオニアとしても知られるYohさんに、3時間のロングインタビューで聞いた人生観。多くの人が普段聞くことのできない、でも本当は聞いてみたいことを聞いてみました。ぜひあなたの人生のエッセンスに加えてみてはいかがでしょうか。きっと自分を変えてくれる何かがあるはずです。
OilcoのYohさんって?
北海道東川町の町から外れた場所に、ひときわシンプルに佇むOilco(オイルコ) ヨシノリコーヒー横にあるこのショップでは、北海道のアメカジのパイオニアYoh(ヨウ)さん(写真中央)が様々なスタイルを経て、現在では「自分のペースでできる店」として週末のみOPENしている人気店です。 現在63歳(2019年時)で、なおも自分の“好き”を仕事として続ける、その生き方に多くの若者が憧れと魅力を感じ集っています。 そんなYohさんが初めてアメリカに渡ったのは1975年19歳のことでした。
■自分の感覚を確認しに
大学で周囲の学生の多くが講義を聞く姿を見て「みんな同じ方向を見ている」と感じ始め、自分の中で明らかに“ここじゃない”と自覚するようになり、自主退学を選択。 そしてすぐさまアメリカに飛ぶことを決断。アメリカに飛ぶ理由は“自分の感覚を確認する”それが強い目的でした。 時代は1975年。1ドル300円の時代に単身でアメリカに渡り、自分の中でうずく感覚を確認しに行く旅。そこで待っていたのは、今の時代でも危険と度々噂されるアメリカのグレイハウンド(長距離バス)でした。
■多くの価値観に触れる
19歳で単身アメリカに渡ったYohさんんは、しばらく学校に通い英語の成績もトップクラスではあったものの、勉強に飽きを感じ始めアメリカ国内を旅するように。 現代のようにインターネットで情報が拾える時代ではなく、若くして興味を持ってしまったアメリカでのリアルな旅は当時のYohさんの好奇心を強く揺さぶりました。
今でも治安が良いとは言えないグレイハウンドですが、当時のグレイハウンドは19歳のアジア人が一人で乗車するなんて危険地帯に自ら飛び込むようなもの。
当たり前のようにYohさんは大勢の黒人に囲まれて「俺たちがやっているポーカーにお前も入れ」と言われます。
「嫌だ」と断っても黒人グループにしつこく誘われ、どうしても逃げ切れなかったYohさんが運転手に助けを求めようとバックミラーに視線をやると、運転手はウインクをして合図をくれました。当時のバスにはボタン一つでパトカーが来るようにできていて、すぐに警察がバスの周りを取り囲み彼らを逮捕。
その後も引き続きグレイハウンドでアメリカを旅したり、友人とキャデラックを購入しアメリカ国内の色々な人と出会い、様々な価値観を吸収しました。
洋服屋ではなかった
アメリカで宝石装飾などの技術を学びたかったYohさんでしたが、ロサンゼルスにあるジュエリー学校が1年半待ちと聞かされ日本に帰国。 帰国後は東京にあるハワイから来たアメリカ人が校長を勤めている「日本ジュエリーアカデミー」で3年ほど宝石鑑定や彫金、デザインなどを学びました。 学校卒業後、著名人の妻などのお客を抱えオーダーメイドで制作を行う傍、夜は夜間学校で英語の教師などをして東京で生活をしていました。 しかし夜な夜な机に向かいライト一つでジュエリーを作り上げる作業と、東京の生活に疲弊してしまったYohさんは地元旭川に帰り、どうしてもやりたかったアメリカ物を扱う服屋を始めることにしました。
■小さな洋服屋から全国区へ
1985年に旭川の街中でアメリカの古着を扱ったSOUTH BRONXを立ち上げ、同時にHOBOというバーを始めました。 そして2年後にBANKというレストランバーをオープンし、空いていた一室でアメリカのビンテージを扱ったCONEY ISLAND STOREをスタート。 CONEY ISLANDは独立し瞬く間に大型量販店や札幌へ出店。また旭川市内のショップ内に店舗を構える人気店へとなりました。 その後CONEY ISLANDの従業員は20人以上に増え、年商は4億円を超える会社へと成長。しかしその成長とは裏腹にYohさんの脳裏には“このままじゃまずいな”と感じることが多くなりました。 次から次と仕事が舞い込んできて目まぐるしく片付けていく仕事のやり方に、自分を見失っていたのを感じ取っていたのがこの頃から。自分がデザインしたい仕事と、商社から依頼される、売るためにデザインしなかればいけない仕事との狭間でジレンマを抱えるように。 また自分でも把握しきれないくらい様々なところで自分の商品が売られるようになり、何がどうなっているのかわからない状況の中仕事を続けていました。
■CONEY ISLANDをやめる
Yohさんが本当の自分を見失い、世の中のビジネスに合わせたYohさんとしてCONEY ISLANDを経営していくうちに、様々な事柄も絡み合いCONEY ISLANDをやめることを考えるようになりました。 旭川の街中でSOUTH BRONXを始めてから全国的なCONEY ISLANDへと、北海道のアメカジのパイオニアとして走り続けて20年。Yohさんが56歳を過ぎた頃でした。
やってきたことは残せた
「CONEY ISLANDをやめるということは自分の子供を失うような寂しさ。でも自分のやってきたことは残せたと言える自負がある」
そう言い切れるのは自分の軸で生きているからこその言葉。 そんなYohさんでも唯一恥ずかしいと思ったのは“男の見栄があったこと”だったそうです。多くのメディアから取り上げられたり、車も高級車のハマーに乗るようになり、少なからず自分の見栄が心の隙間から顔を覗かせました。 「今考えると恥ずかしいね」 そんな経験を経てきたからこそ、今はそれらのもので自分を飾りたいという気持ちより、素の自分でいれることに満足しています。
■不安は想像でしかない
「不安はなかったと言ったら嘘になるけど、そんなに大きくはなかったかな。不安って想像でしかないんだよ」 56歳でCONEY ISLANDをやめる決断をしましたが、これからに対する不安を感じることはなかったそうです。ベースにはアメリカを旅していた時のヒッピー達との生活があったから。 「彼らは今日明日をどうやって楽しく生きるか、そしてどこで何をするかが問題ではなく、何を思って生きているかを考えているんだよね」 自由にそして日々を楽しく暮らすヒッピー達と遊び、生活をしていく中で不安を感じない生き方を学んでいました。CONEY ISLANDをやめたからといって、その後どうするかなど深く考え込むことはなかったそうです。
■服はもうやめる
Yohさんは服業界から足を洗うつもりでした。 「バイトでもするかなと思って探していた」 しかしそんなYohさんを世間は放っておいてはくれません。 ニューヨークのとある会社から連絡が来て、もう一度Yohさんは服業界に引き戻されることに。そしてその会社と色々話をした結果、Yohさんは東川町で自分のペースで再起をすることになりました。 再起後も様々な困難もありつつ、現在のOilcoの形になったのが今のスタイル。 「前ほど大きくやるつもりもないし、一人でやるのが大変な時もある。でも一人でやるペースが一番ベストなんじゃないかな」 全国展開で販売され、20人以上のスタッフを抱えやってきたYohさんがたどり着いた自分のスタイルがここにきて確立されるようになりました。
個性の作り方について
少し考えた後にYohさんはこう言いました。 「その人の持つバックボーンなんじゃないかな。その人が放つオーラというか」 バックボーンは日本語に直訳すると「背中の骨」要はブレない背骨を持って生きれているかどうか。その背骨がぶれている人に、個性は作り出せない。 「何をして生きるかじゃなくて、何を思って生きるかが俺は大事だと思うよ。そこに人間の美しさが宿る」
CONEY ISLANDをやめた後も同じ業界に戻ってきたのには、Yohさん自身の背骨がずれていなかったから。この業界に戻るとなった時に多くの仲間が声をかけてくれました。 「Yohさんがまた新しくやるなら是非手伝わせてください」 「Yohさんがやるなら声かけてください。Yohさんと一緒にやりたいんです」 後にYohさん自身も語ったように「結局は人だよ」といかに自分の個性が人との繋がりを作っていたかを物語っているのか。結果としてYohさんの個性は商品や売り上げよりも莫大な価値を産んでいました。
■SNSは個性ではない
「インスタやフェイスブックを見ると自分を大きく見せようとしている人が多くなった気がするな」 現代のSNSは加工もより簡単になり、個性的でおしゃれな投稿をしている人が増えたようにも感じますが、必ずしもそれがその人の個性に反映していとはYohさんは感じていません。 SNSへの加工した投稿が悪いわけではありません。 しかしそれらがその人の個性を違う方向へ作り出しているように感じることが時よりYohさんの頭をかすめます。
好きなことで生きる
「ぶれないっていうことは変化をしないことではない。変化の仕方が問題なんだよ」 好きなことをやっていても大変なことだったり、変化をしなければいけない時があります。 Yohさんの元にはYohさんの生き方に魅力を感じる若者が日々色々な相談に訪れます。 「相談に来るってことはすでにその人の中で答えは出ているんだよ。そして、夢を語る人ほど行動していないように感じるな」 相談する多くの人はYohさんという人間に背中を押してもらいたいだけ。そして「俺、服屋がやりたいんですけど」と語る人にはあまり共感しないそうです。 「だって本当にやりたかったらやればいいだけでしょ」と、真っ向論を語ります。しかしYohさん自身から否定的な意見を言ったり、こうすれば良いよとアドバイスを熱心にすることはありません。 「俺、あんまり人にどうこう言うのは好きじゃなくてね。聞かれたら答えるけど本当は助言は好きじゃない」 悪意があるわけではありません。ただYohさん自身若い人に何かを語れるほどの人間ではないという、自分の中のアイデンティティーがあるのです。
伝えられること
今回の会話の中でYohさんの口から度々出た言葉。 「俺から若い人に語れることは何もないよ」 Yohさんが自分自身を大きく見せようとして、身を乗り出し語ろうとすることもなく、自分の影響力を使って誰かに何かを伝えようとすることもありませんでした。 「夢を持て」や「志を高く持て」などの抽象的なことは語らず「今日、明日を生きるのみだけかな」とコーヒーをすすりながら語るその口に日々を踏みしめて歩いている、Yohさんの生き方が垣間見えます。 世の中はどんな良い言葉を残すかではありません。 それよりもどんな人の口から出た言葉か。 あなたはその“どんな人”になれるような生き方をしているのか。 それとも聞こえの良い言葉を並べて自分を大きく見せようとする生き方か。 「俺から伝えられることは何もないよ」 刹那的で飾りのないこの言葉を海よりも深く心に刻み込め。
Oilco
Oilco(オイルコ)
代表 鈴木 洋
〒071-1426
北海道上川郡東川町北町12丁目11−1 ヨシノリコーヒー横
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初めて旅をした1975年のアメリカ Oilco Yoh | 旭川のことならasatan
https://asatan.com/articles/1276
北海道アメカジのパイオニアOilcoのYohさんがアメリカを旅した1975年。
ヒッピームーブメントの中19歳でインスパイアされたアメリカ文化は自身のアイデンテティーに大きな影響を与えた。
若き頃のYohさんがアメリカを旅する中で感じたアメリカの空気。
旅は一人の若者を育て、旅は一人の日本人にアメリカの文化を手渡した。
TEL 0166-65-8311
E-Mail peachgreen@icloud.com
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