幕末から明治にかけて活躍した日本の金工師【加納夏雄】
京都の米穀商の子として生まれ、7歳で刀剣商の養子となりました。12歳で彫金師の奥村庄八に、その後は池田孝寿に金工を学び、絵画は円山派の中島来章に師事するなど、多岐にわたる分野を習得しました。明治維新後、1869年に明治天皇の御刀金具を彫刻する帝室御用達となります。さらに、新政府から新貨幣の原型制作を依頼され、高い完成度で海外の技術者を驚かせ、日本国内での製造を可能にしました。
1876年の廃刀令により刀装具の需要が激減すると、花瓶、置物、煙草入れなどの美術工芸品へと活動の場を移しました。1889年に東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授に就任し、後進の指導にあたるとともに、帝室技芸員にも選ばれました。
加納夏雄は、特に片切彫りという技法を得意とし、高彫りや象嵌などの精緻な技術と、円山派で学んだ写実的な絵画表現を融合させた優美な作風が特徴です。
代表作品の百鶴図花瓶は、 1890年の第3回内国勧業博覧会で一等妙技賞を受賞し、宮内省に買い上げられました。明治天皇の御太刀の金具として制作された水龍剣は、東京国立博物館に所蔵されています。また、鯉魚図額:は、1881年の第2回内国勧業博覧会で妙技一等賞を受賞した作品です。
現在の取引額は数百万円から。
日本を代表する装剣金工家【後藤一乗】
後藤家は、刀装具の制作で格式高い家柄でしたが、一乗は家風にとらわれず、動植物などを写実的に表現する「町彫り」の手法を取り入れました。これにより、衰退しつつあった後藤家に新たな活力を吹き込みました。その卓越した技術と革新的な作風は、幕府や皇室からも高く評価されました。天皇の御用を務めるなど、多くの重要な仕事を任され、その功績によって「法橋」「法眼」という称号を授けられました。後藤一乗は、弟子たちの育成にも力を注ぎました。船田一琴、橋本一至、中川一匠など、多くの優秀な金工師を輩出し、明治以降の金工界の発展に大きく貢献しました。
後藤一乗の作品は、優美で写実的な作風が特徴です。特に、草花や虫、鳥、風景といった自然をモチーフにしたものが多く、絵画のような繊細な表現がされています。
高彫り:は、題材を立体的に彫り出す技法で、象嵌は金や銀、赤銅(しゃくどう)などを他の金属に嵌め込む技法です。特に、砂をまいたように小さな粒状の象嵌を施す「砂子象嵌(すなごぞうがん)」を得意としました。
彼の作品のうち、「沃懸地鳳凰蒔絵小脇指(いかけじほうおうまきえのこわきざし)」の金具や「吉野龍田図大小揃金具(よしのにょうでんずだいしょうぞろえかなぐ)」などは、国の重要文化財に指定されています。
加納夏雄も「後藤一乗は技量に優れ、本家をも圧倒した」と称賛しており、一乗は幕末の金工界を代表する存在として、その地位を確固たるものにしました。
現在の取引額は数百万円から。
明治時代に活躍した日本の彫金家【海野勝珉】
明治維新後、1876年(明治9年)に廃刀令が出されると、武士の刀を装飾する金具(刀装具)の需要がなくなりました。多くの彫金家が困窮する中、海野勝珉は装飾品や置物など、美術工芸品としての彫金に活路を見出します。国内で開催された博覧会に積極的に作品を出品し、高い評価を得ました。特に1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会に出品した『蘭陵王置物』は、その精巧な技術と豊かな色彩表現で人々を驚かせ、「妙技一等賞」を受賞しました。この作品は、現在重要文化財に指定されています。
1891年(明治24年)には東京美術学校(現在の東京芸術大学)の助教授に就任し、後進の指導にも尽力しました。帝室技芸員にも任命され、明治金工界の重鎮として確固たる地位を築きました。
海野勝珉の作品は、片切彫(かたぎりぼり)という、鋭い鑿(のみ)で金属を彫り進める技術と、さまざまな種類の金属を組み合わせる象嵌(ぞうがん)の技術に優れていました。これにより、写実的でありながらも、華やかで立体感のある作品を生み出しました。
日本の伝統的な彫金技術を、近代美術として昇華させた海野勝珉は、明治時代の工芸史において非常に重要な人物です。
現在の取引額は数百万円から。
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