旭川の始まり
明治18年、司法大輔であった岩村通俊らは、近文山から国見を行い、上川原野の開発に可能性を見いだし、上川に離宮の設置を建議しました。設置は実現しませんでしたが、明治23年に旭川・神居・永山の3村が置かれ、翌年から屯田兵による開拓が進み、本市の米作りの歴史が始まります。寒冷地での稲作は不適といわれる中、先人たちの不屈の精神により、今日の基幹産業が形成されました。また、大雪山系の豊富な伏流水と寒暖差に恵まれた環境は、酒造業の創業を後押しし、職人たちの努力によって、旭川は「北海の灘」と呼ばれるまでに成長しました。
明治30年代、鉄道が開通し、第七師団司令部が札幌から旭川に移駐すると、人の往来が急増。様々な需要が生まれて商工業が発展し、明治33年に旭川町となり、大正3年に札幌、小樽、函館に次いで4番目に旭川区となりました。
一方で、自然と共存する独自の文化を築いてきたアイヌの人たちは、明治政府の同化政策による貧困や差別に苦しみながらも、民族としての誇りを持ち続けてきました。
市制施行から戦時体制まで
今から100年前の大正11年、ベストセラー『氷点』の作家・三浦綾子が誕生しました。同年8月1日、旭川は札幌・函館・小樽・室蘭・釧路と共に、市制が施行されました。
鉄道網の充実に伴い旭川商圏が拡大。大正12年、稚内と樺太(現サハリン)の連絡航路が開通すると樺太との交易が盛んになり、運送業や卸売業が発展しました。
旭川駅前から第七師団に向かう道路は「師団通」と呼ばれ、旅館・菓子商・呉服店などの小売店の他、「佐々木座」や「神田館」といった劇場や活動写真館が建ち並び、商店街が形成されました。すずらんをイメージした街灯が、4条通をはじめ1条通から6条通に次々と設置され、旭川の名物として夜景に詩情を添えました。
昭和4年6月、戦没者慰霊に合わせ、10団体約200人が参加して第1回慰霊音楽大行進が開催されました。駅前から師団通を通って招魂社(現護国神社)までパレードし、多くの市民でにぎわいました。今では北海道音楽大行進と改称され、道内最大の音楽イベントとして親しまれています。
人口が増え、都市機能の整備が進む中、旭川は水害に悩まされており、治水工事が不可欠でした。昭和5年に牛朱別川の切り替え工事が始まり、埋め立て地には常磐公園やロータリーが整備され、昭和7年、旭橋は現在のものに架け替えられました
昭和12年頃から戦争が激しさを増すと、軍需工場が次々と建設されました。戦争末期には配給量が減り、市民は耐乏生活を強いられました。常磐公園や神楽岡公園などで食糧となるものを耕作し、野草やでんぷん粕まで食べるようになりました。
第1回慰霊音楽大行進
師団通のすずらん灯(昭和10年代)
■音楽のまちの「大行進」 伝統を継ぐ
北海道音楽大行進 実行委員長
南 裕一(みなみやすかず)さん
音楽大行進は、先人たちの熱い思いでこれまで開催を重ね、音楽のまちの市民行事として定着しました。全国最大規模の音楽パレードで、数千人が10数万人の観客を前に演奏する、年に1度の晴れ舞台。子供の数が減っても盛り上がりは変わりません。コロナ禍で2年連続中止となりましたが、今年の第90回は、ぜひ実現させたいです。
戦後復興から高度成長へ
戦争が終わり、日本が連合国軍の占領下に置かれると、旭川にもGHQが約5千人進駐しました。第七師団は解体され、師団通は平和への願いを込めて「平和通」に。資産を失った引き揚げ者らによる露店が開設され、食糧難とインフレが続く市民生活を支えました。
社会が安定するにつれ、国策パルプ旭川工場の再開、各醸造元の再始動、急行列車の運行復活など、経済活動が回復。昭和25年に開かれた北海道開発大博覧会は、市内に明るさと活気をもたらし、戦後復興の契機の1つとなりました。
昭和30年代に入ると、民間の積極的な設備投資に加えて、東京五輪や大阪万博の特需を背景に高度経済成長期を迎えます。市内においても、様々な施設やインフラが整備され、昭和41年に旭川空港が開港、翌年には旭山動物園が開園しました。
日本にマイカーブームが訪れ車が急増すると、平和通にも車があふれ、交通事故が多発しました。事故の不安をなくし、子供が遊び、大人が買い物を楽しむなど、自由に憩える場所にしたい。そんな思いが関係省庁を動かし、昭和47年に平和通買物公園がオープン。全国初の恒久的歩行者天国として脚光を浴びました。
戦前から市民のスポーツの場として親しまれた近文公園は、施設の老朽化に加え、市民の体育・余暇活動の需要増と多様化を受け、施設充実への要望が強くなりました。昭和50年代、隣接する競馬場跡地を買収し、陸上競技場や総合体育館(現リアルター夢りんご体育館)等が整備され、市営球場は旭川で育った名投手・スタルヒンの名を冠して改築されました。平成3年に花咲スポーツ公園と改称し、今も多くのスポーツ大会等が行われています。
混乱期の市民生活を支えた露店
オープン当時の買物公園
多くの観客でにぎわうスタルヒン球場
■スタルヒン球場は「夢の場所」
旭川実業高校から千葉ロッテマリーンズへ
田中楓基(たなかふうき)さん
小学生の頃から、勝つと周りの人が喜んでくれることが原動力でした。スタルヒン球場は昔から夢の場所で、応援されて投げる姿を思い描いていました。今では高校3年間の思い出が詰まった、大切な場所です。皆さんの期待に必ず応え、野球界を盛り上げたいです。野球界の大先輩である田中将大投手と同姓ですが、「田中といえば楓基」といわれる投手を目指します。
平成から令和、新たな時代へ
昭和の終わり頃には、買物公園にファストフード店が進出するなど、海外や一部の大都市のみにあった新たなモノやサービスが旭川にも取り入れられ、生活様式も変わっていきました。平成に入りバブル経済が崩壊すると、市内の商工業も大きな変化を迫られました。
官民一体の象徴として発展してきた家具産業では、婚礼家具の需要が落ち込み、たんす等の箱物家具の売上が減少。需要の変化に対応するため、デザイン力を磨き、椅子やテーブルなどの脚物家具の生産に注力していきます。
酒造業では、ビールや洋酒の消費量が増え、日本酒の人気が低迷。各社は消費者のニーズに応じた新商品の開発や、海外展開を加速させるなど、飽くなき挑戦を続けてきました。
平成の半ばに入っても国内消費は低迷が続きます。国は打開策として「ビジット・ジャパン・キャンペーン」で外国人観光客の誘致を始めますが、当初、外国人観光客は大都市に集中していました。観光大国のフランスでも、パリやニースなど名が知られた観光地に人気が集中するように、旭川に呼び込むのは簡単ではありませんでした。このような中でも、旭川空港への国際線の誘致や、周辺市町村と広域プロモーション活動を継続。旭川にも徐々に外国人が訪れ、旭山動物園や上質なパウダースノーを楽しめるウインタースポーツが人気を集めました。
平成の終わり頃には、SNSの普及によって地方都市の情報が世界に届くようになり、外国人観光客は見る見る増加。平成25年にはおよそ5万泊だった外国人の宿泊延べ数は、令和元年には25万泊を超え、市内は多くの外国人観光客でにぎわいました
旭川の上質なパウダースノーを満喫
■情報発信と商品開発で観光回復へ
台湾から移住 大雪カムイミンタラDMO
何 雨庭(カウテイ)さん
大自然や雪、都市と農村のバランスに引かれ、DMOに就職しました。コロナの影響でこの2年は多くの企画が中止され、観光には厳しい状況が続いていますが、ツアー内容の考案や情報発信を続けています。大雪エリアでできる日本文化の体験や冬のアクティビティーなどを、多くの人に楽しんでもらいたいです。
「ワクワクするまち・旭川」へ
先人たちは、災害や戦争、社会の変化など多くの苦難を乗り越え、現在の旭川を築いてきました。コロナ禍で私たちの生活は一変しましたが、市民・行政が手を携え、次の100年に続く「ワクワクするまち・旭川」をつくり上げてい
きましょう。
【詳細】政策調整課 25・5358